シャトウ・イケム

アンデルセンの「即興詩人」のなかに出てくる葡萄酒だが、鴎外の訳では「聖涙号」といぅ。これは、ラクリマ・クリスチというラテン語で、キリストの涙という意味である。ナポリのまわり、殊にヴエスヴィオ火山の裾野に植えた葡萄から取る。名前が変ってるので名高いのだが、名ばかりで、物はそれほど知られていない。ヨーロッパでも、「聖涙号」の色は赤か白かとよく議論されるが、赤と白と両方あるのだ。だから白いのを飲んだことのある者は、白だといい、赤いのを飲んだことのある者は赤だというわけで、ナポリ以外に広く行きわたってないのに、名前だけ宣伝されてるから、こうした議論が起るのだ。
かつての宮内省用語として、葡萄酒のことを「御赤酒」(おんせきしゅ)といった。総理大臣とか元老とか元帥とかが病あつく、もう助からないというと、御侍医差遣とともに、この御赤酒を賜わることになっていた。浜口雄幸が死にかけた時に、宮内省からきた葡萄は、新聞によると「御赤酒」であったが、本当は、白葡萄酒であった。それは、フランスでも、一番上等とされたシャトウ・イケムが一ダースであった。シャトウというのは「お城」とか「やかた(館)という意味で、上等の葡萄酒の銘柄として、醸造元の名とともに付けられる。フランスで醸造元といえば必ず、お城のような建物だからである。これを、もじって、水道の水のことを、シャトウ・ラ・ポンプといつのは、日本の鉄管ビールといった酒落に似ている。さて、シャトウ・イケムというものは、本場のフランスでも一般大衆はもちろん、中流の上くらいの人々でも一生知らずに死んでしまうほどの極上々の品である。パリの新聞に「彼女は、シャトウ・イケムのように顔を赤らめた」と書いであったのを見たが、これを書いた記者君は、シヤ
トウ・イケムを飲んだことも、また見たこともなかった証拠である。シャトウ・イケムがボルドウの白である。だから「御赤酒」ではない。白といっても、赤くないだけで、黄金色で、本のお酒に似ている。特別のバケツに壊を入れて、氷に冷やして飲むという大袈裟なものである。浜口さんが、命旦夕に迫っているから、折角下さった銘酒を飲むわけにはいかない。病院にきていた院外団の男たちが、これを、ラッパ飲みしていた。私も、好機逸すべからずと、有難く裾分に与かった。シャトウ・イケムを酔うほど飲んだのは、あとにもさきにもこれきりで、大使館の宴会なぞでは、なめる程度だった。その時一緒に果物の龍もあったが、その院外団のひとりが、レモンの皮を剥いて中身を食べかけたのには私は驚いて「そりゃ、西洋のだいだいで、皮を使うもので、中身は食べられないよ」と教えてやった。宮内省の方では、浜口さんは、「もうイケン」というので、おまじないに下さったのだろうが、シャトウ・イケムの方では、こんな連中に、らっぱ飲みされたのでは、こりゃ、いけん――と泣いたことだろう。
ドイツのライン・ワインにリイブフラウエンミルヒというのがある。言葉の意味は愛妻のおっぱい――ということである。名前が面白いので、よく知られている。いかにも甘ったるぃ。白酒みたいなものを想像すると大間違いである。ライン・ワインは総て、甘味が少しもなく、色も味も日本の冷用酒に近く、それに葡萄の香りがあるものである。ライン・ワインを飲むときには、特別の長いコップで飲むが、コップのガラスに薄い緑の色が付いている。飲む前に、コップを上げて、色を褒めるのが礼儀となってるらしい。陽の光にかざしてコップのなかに太陽があるぞというが、何のことか、よく解らない。とにかく、おしなべて葡萄酒というものは、いきなり、がぶがぶと飲むものではない、日本の茶の湯ほど、形式的にはなってないが。リイブフラウエンを文字通り愛妻と訳すのは誤訳である。これは「慈悲の婦人」というべきで、マドンナのことである。だから、このリイブフラウエンミルヒというのは、聖母の賜物のお乳で、宗教的な名前であること、ナポリのラクリマ・クリスチと同じようなものである。英語でシェリイという葡萄酒は、色と味とが日本の酒に似た辛口である。日本の冷酒そっくりだが、このシェリイは南スペインは「カルメン」で名高いアンダルシャ地方の町の名で、レスを英語批りに発音したもの。そこから遠くないところに、マラガという町がある。ここでつくる葡萄酒がマラガで、これは甘口で御婦人向きときまっている。先年の内乱で包囲されて頑張ったが、「マラガ遂に陥落」と、新聞の見出しにあった。マラガで思い出した、これは葡萄酒ではないがマラスキーノというのがある。ギリシャとイタリアの名産、マラスキというすっぽい桜ん坊からとった汁に、少しの白蜜を加えて醸造、三年ほど経ってから飲むのだが、
とても甘たるくて、御婦人向きである。ところで、このマラスキlノというのは、イタリアの言葉であるが、フランス語では、これをマラスカンと発音する。スキノとい、つのと、スカンというのとでは、あべこべである。

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