シラミによる人間の研究

旅となれば、一晩どまりの旅でも、出かける前に、それ相当の仕度がいる。
これから、私が話を始めるについても、とにかく旅の話であるから、前置きに予備知識的なことから始めないといけない。
私の尊敬する先輩に内田清之助さんがある。内田さんは日本じゅう誰ひとり知らぬ者はないほどの学者で、「鳥博士」といえば、それは内聞きんのことである。
鳥類学専門の学者は多い。黒田、山階、清楼といずれも理学博士である。鳥の分類とか生態とか、また、その生理学によって、その博士号を得ている。
内田博士だけは、理学博士ではなく、農学博士である。前の上野動物園長の古賀さんは鶴の卵についての研究で博士になった。これは自分の出身学部である農学部に博士論文を出したから、応用動物学のほうで農学博士である。
内田さんの博士号は、鶏の研究によるものであるから、産業方面の学問として農学博士となったものらしい。
しかし、その論文つまり研究はというと、本当はシラミが題目だから、これは昆虫学の畑である。
シラミという見虫は、他の動物に寄生して生活する、他の動物の血を吸って生きたり繁殖したりする。
内田さんの研究したシラミは、人間にたかるシラミではなく、鶏に寄生する特別のシラミ。鳥の種類を異にすると、シラミも色や型が違っている。
これを逆に論じて、その寄生する数種のシラミによって、鶏の系統が判るという、大きな研究である。

さて、このシラミであるが、人間に寄生するやつは、二種類あることは誰でも知っている。頭の髪やキモノの縫い目に生活するのは普通のシラミ、これは割合に移動性があり、特別の事情がなくても伝染するから、研究の対象としては面白くない。
私が各国を旅して研究したのは、もっぱら第二種のシラミ。体毛をすみかとする、いわゆるトビシラミのほうである。
トビシラミといっても、飛ぶシラミではなく、一度発生(実は感染だが)したら、頑固に、しがみついて、なかなか移動しない、そうしたシラミである。
トビシラミというが、それはツビシラミというのが本当である。ツピとは女陰のことで、男女聞の特殊家庭事情によって、初めて他の人体に移動する。すなわち毛ジラミである。
ヨーロッパでは、大戦中、このシラミが多くて、人類を悩ました。
ことに、第一戦の兵士どもは、着のみ着のままで、不潔な生活をしているから、時あってか、敵の鉄砲玉より、こっちのほうが兵隊を苦しめる。

フィンランドという国は、陸上スポーツ王国として名高いが、国際暗号電報の解読のほうでも一流固として名高い。
第二次大戦中、ドイツと共同戦線を張ってソ連と対抗していた。ドイツでも、ソ連の暗号が解らなくて困っていた時、これを解読したのはフィンランドである。
フィンランドはスパイによって、第一線のソ連兵が、どれもこれも、毛ジラミに苦しんでいることを知った。
シラミで掻ゆくて夜も眠られないでは、戦闘力が半減する。これが全員それでは、全軍の戦意が低下する。各部隊から、司令部に向かって、シラミを退治する軟膏を注文しているということを、スパイによって知ることができた。
そこで、いくら暗号を使っても、頻数表によって何か手掛かりがあれば、解読できる。前戦から後方司令部へ行く暗号のなかで、一番多く出る言葉は何か。それは、実にシラミである。
このシラミという言葉が暗号の全文を解読する鍵となったという。こうなると、シラミもなかなか大変なもの、あまり馬鹿にすることはできない。
日本では、黒みがかった青白い、なんというか、乾いたスレートみたいな色のことをシラミ色という。つまり、日本人の体毛と、また、その体毛のある部分の皮膚の色が青白いから、その保護色をしている。
人類に寄生するシラミが、みなこれだと思うのは早合点。
金髪女性から頂戴するシラミは、ピンク色で、いやに派手であるから捕えるに難しくない。しかし、金髪(その膚は、いわゆるピンク色)の森林地帯にあっては、これが一番のカムフラージュである。血を吸って薄赤くなったわけではなく、ピンクが彼生来の色なのである。
港々に女ありだが、せっかく西洋へ行っても髪の黒いのは、つまらない。そんなのは、あえて舶来を所望せずとも、国産普通用品と同じである。
だから、金髪、しかも膚のピンク色の本物の金髪、つまりブロンドが喜ばれる。いくら西洋でも、本物の上等の金髪は、おいそれと手にはいらない。
本物の立派なブロンド、しかも安値の所があったという。もちろん貧弱で暗い家だ。ある時、そこから例のお土産をもらってきたのがある。
どうも変だというので調べてみると、胡麻みたいなシラミを発見。ピンクと思いきや、胡麻に黒っぽいシラミである。
これによって、入口で見かけたブロンドは、いつの間にやら黒い女と入れかわっていたことが証明され、安いわけが判ったという。
シラミによって、人聞を研究すると理学博士ではなく医学博士になれるかも知れない。

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