サイン

ラジオだけで名前を知られたころは、こっちが知らん顔していれば無事にすんだ。
汽車に乗っていても、向こう側の連中が私の話をしている。面白いやつだ、とか、いやな野郎だとか、しきりに話しているのを聞くのも旅のつれづれ、まあ参考になった。
テレビに何年も出ていると、もう、いけません。忙しい時に限ってサインをさせられるような気がする。サインを、もっとも多くさせられるのは、汽船の中と、温泉宿とで、多数の団体につかまると助からない。
群衆心理でひとりにサインすると、あとからあとから、われもわれもと、おし寄せる。色紙とかサイン帖を出すのなら結構だが、手当たり次第の紙を出して「あたいもしてもらおう」と競争である。「ぼく、誰だか知ってるのかい」「知らないけど、皆が頼んでるから」なんていうのもいる。こんなのが延々たる行列を作るのだから、たまらない。
中にはちり紙を出す者もある。玉川一郎、サトウ・ハチローなどという簡単な文字なら楽だが、渡辺紳一郎というのは手聞がかかる。トイレット・ペーパーにサインさせて、それで、変なとこに使われたのでは、紳の字が白井をつままなくてはならない。
紙がないからとて、ハンカチを出すのが多い。たたみ目があったりで、風に吹かれたハンカチは書きにくい。そんなことなど、先様は平気だ。中年の女どもの団体は、寄ってたかって、こっちをもみくちゃにする。「さあさあ、拡げて、手でおさえて、つっぱるのよ……」などと、きやっきやっの大騒ぎ。こんな大騒ぎをしていながら、同行のベギー葉山とか、なんとかが姿を現わすと、「あらっ、ベギーさんよ、サインサイン」と、全部が向こうの方へ行ってしまう。ひどいのになると、私が書きかけてるのを、引ったくって行ってしまう。そして、こっちは、ぽつんと残されるという奇妙な現象を呈する。
このごろでは、面倒くさい時には、この現象を逆に利用する。あらぬ方角を指して、「あっ、ベギーだ」とか「あっ、裕次郎だ」とか(嘘の場合もある)いうと皆そっちへ行ってくれる。

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