ベルギーのアントワープ、ドイツのハンブルグなどという港に、かつては日本の貨物船が毎日のようにはいったものであった。戦争前には、世界における三大海運国の一つとして、七つの海を、日の丸の旗をつけて「マル」が行ったり来たりした。
その頃の話である。船員専門の女郎屋があった。張り店というのが、日本なら芝居で見るとおりに格子になっているが、西洋のそれはガラス張りである。百貨店のショーウインドーみたいになっている。そのなかに人形ではなく、本物の美人が、ピアノを弾いたり、トランプをしたり、コーヒーを飲んだりしている。そとから客が見てると、スカートを、たくし上げて一不威運動で誘惑しようとする。近ごろ行って来た人の話では、もの凄い婆さんばかりになってるそうだ。
マリリン・モンローやエヴァ・ガードナーみたいなのに誘われる。一緒に別室に行く、金髪の乙姫様に挑まれた浦島太郎というわけ。浦島という表現が古くさくて、お気に召さないなら、ヴィーナスに誘われたタンホイザーでもよろしい。とにかく、心わくわく、頬べたの顔面筋肉が、むずむずする。マリリン(エヴアでもよろしい)は、ベッドルlムの電気を消す。(お手洗か知らないが)ちょっと席をはずす。待つ間もなく帰って来る。停電らしい、電燈はつかない。それから然るべきことがあって、マリリンは出ていく。
この店は値段が馬鹿に安いので大はやり、日本人の船員の間で評判がすこぶるよろしい。マルセイユなら、ハンブルグなら、あそこへ行けということになっていた。
安かろう悪かろうではなく、安くてサービス満点。
あんな上玉の美人揃いの店にしては安すぎるというのに不審を抱いたのが、暗闇に、こっそり証拠物件たる一種の毛髪を、まさぐりながら取って来たところ、ちりちりに、縮れた黒人のそれであったというのは、いささか作り話らしい。だが身体ばかり立派で面の悪い女は世界に充満しているから、文字どおり闇取引の替玉ということは珍らしいことではない。
女の替玉の話をして、男の替玉の話をしないのは片手落ちだ。
今は昔、西洋に美しい、しかも好色で名高い女性がいた。顔と姿は申し分ないが欲が深いのが玉に抗。いわゆる金に転ぶという商売女である。一晩の遊興代が一万フランを一サンチーム欠けても駄目という欲ばり女。
その女のところへ、貧弱な身体の老人がやって来た。見るからに精力のなさそうな男、ただし一万フランは耳を揃えて出した。
こんな貧弱な男なら、たいしたこともなかろうと、彼女は一万フランを取った。
この男が、いうには「自分は葉巻が大の好物、しかし狭い寝室で葉巻を吸うと強い煙がもうもうとなるから、葉巻を吸いに時々、廊下の外に出てもよろしいか」と。もちろん、その方が都合がいい、臭い葉巻を、やられては彼女も困るので、廊下に吸いに出るのはかえって好都合であった。
彼女のほうも条件を出した。貧弱な男の姿を見るのは、もろもろの気分を害するから「いつさい真暗よ」というのであった。
さて、それからの具体的状況は省略するが、とにかく、その男、一休みするたびに葉巻を吸いたがる、したがいまして、その都度廊下へ出るわけ。貧弱な、弱々しい男とは、ほんの見かけで、実力は大したもの、勇気りんりん、廊下へ出て、葉巻を吸うと、以前にいやまして精力みなぎり、疲れということを少しも知らない。その男が、魔法使いなのか。あるいは葉巻が魔法の煙車なのか、いとも不思議なことである。
さすがの彼女も、すっかり驚いて、自分から出した条件の「真暗」をやめて、灯を点けてみると、ああら不思議や、宵の口に見た老人ではなく、筋肉隆々とたくましい若者であった。元の老人が若者に化けたのではなく、別の人間であった。あの老人は、どうしたと尋ねると、
「あ、あいつか。彼は廊下の外で一枚三千フランの入場券を売ってるよ」。葉巻を吸いに出た回数だけ、別々の人間であったという話。
葉巻